臨床工学技師の仕事とやりがい

医療事故を起こさないシステム

腎臓病の治療について

腎臓を患っている方へ

私の闘病記

10ヶ月もの入院生活

突然「入院」を宣告された自分。何の病気なのかも説明が全くなく、とにかく「大した長くならないと思うけど、入院だって」と、母が話す。

・・・絶対そんなわけない。自分はそう思っていた。

6人部屋がたくさんある中で、自分は何故か個室。これだけでも十分おかしい。それに加えて、薬が膨大に出て(20種・100錠程の錠剤と、4種の粉薬)、薬を飲む為に、ご飯を残さなければならないほどだった(そうしないと薬が入らない)。

おまけに、学校の担任の先生がお見舞いに来てくれた時の両親との会話。先生「退院は、長引きそうですか?」親「そうですね・・・」と返す。

最初、「大した長くならないと思う」って言ったよね?なんで話が変わってるの?なんで自分だけ最初から個室なの??なんでこんなに薬飲まなきゃならないの??俺、重病なんじゃないの??そうなんでしょ??そう問いつめようと思ったが、止めた。

母を責めても仕方ない。その場限りだったとしても、自分の不安な気持ちを少しでもやわらげようと思って言った言葉に違いないから。

血液検査をしたり、腎臓の細胞を取って調べる検査(腎生検)などをしてわかった、私の正確な病名は、「IgA腎症」。

今でこそ、この病気はポピュラーにはなったが、当時は、少なくとも私が入院していたK市の市立病院には、この病気に関してそんなに詳しい医師もおらず、原因も不明だった。(原因は現在も不明)

とりあえず食事制限をし、色んな薬を試したが、私には劇的な効果はなかった。その施設で考えうる全ての治療をしたが、私の状態は良くはならなかった。そこで、主治医が、両親と私に話をした。

「ここで色々な治療をしましたが、効果はありませんでした。ここでは、これ以上の治療はできません。しかし、S市では、腎臓病の権威の医師がいますし、他の治療法もできると思います。また、そこには、併設の養護学校もあり、中学校に通う事もできます。S市の病院に、転院しませんか?」と言う内容だった。

・・・だが、正直、入院している間の記憶というか、何があったか、とか言う出来事は、私はあまり覚えていない。

身体の調子が良くなく、常に寝ていたのと、大量の薬による副作用の影響など、色々あった。なので、自分が当時、転院を望んで、意思表示をしたのかどうかすらわからない。しかし、事実として、入院してから3ヵ月後の7月に、私は300キロ離れたS市の病院へ転院することとなった。

K市の市立病院を退院して、S市の病院に行く間、1日だけ家に帰れる時間があった。その時に、「3ヶ月食事制限・水分制限したご褒美」として親が焼肉店へ連れて行ってくれた。薄味にすっかり慣れた私は、たれをつけなくても十分美味しかった。この時味わった焼肉の味は、今でも覚えている。

そしてその翌日、私は父の運転で、S市の総合病院へと向かったのだった。父の車の運転で6時間ほどかけて、S市の転院先に着いた私と両親。そこは、私が今までいたK市の病院とは全然雰囲気が違った。「病院」とさえ思えなかった。

そこも小児科だったのだが、患者がギャーギャー走り回り、看護師が「うるさい!ご飯中なんだから静かにしなさい!!」と怒鳴る。広々とした食堂で、患者全員でご飯を食べる。病院と言うより「寮」と言う感じがした。この中の子供達全員が、何らかの病気を持っているとは思えなかった。

看護師長に病棟内を案内され、「どうですか?うちの病院の印象は」と聞かれて、「皆元気ですね~」と答えたぐらいだった。

食堂の掃除当番まであるらしい。今までの、寝たっきりの入院生活と余りにもかけ離れていた為、最初はびっくりしたのと、身体がついていかなかったが、それも時期に慣れ、2ヵ月後には私も看護師に怒られるようなやんちゃな患者になっていた。

養護学校は、正直なところ、普通の中学校、とまではいかなかった。多種多様な障害を持っている全ての子供が、同一の授業を受けて理解させる為には、授業のレベルを落とすしかなかったんだと思う。でも、5月から7月の間、自分は全く授業も受けていなかったので、養護学校の存在はありがたかった。もちろん病院なので、治療もした。

色々な治療法を試したり、治験薬(開発されたが、厚生労働大臣の承認をまだもらっていない、臨床試験段階の薬)を試したりした。

主治医は、その都度検査結果の報告はしなかったが、体調がだいぶ良くなってきたので、治療が功を奏して、だいぶ悪くなるのを食い止められたのだと思う。(IgA 腎症含む慢性腎炎は、完治する事がなく、徐々に悪くなっていく一方なので、悪化させる事なく、今の状態を維持する事が、治療なのです)

そして、年が明けて2月。主治医から「話がある」と言われ、面談室へ行った。そこで話された事。それは、「退院するかしないか」と言うことだった。

7月から2月まで、色々な薬や治療法を試し、なんとか悪化を食い止められるところまで良くなった。この状態なら、退院して、普通の中学へ通って勉強できると思うし、暴飲暴食や夜遊びなど、無理な生活さえしなければ、このまま普通の生活ができる。

でも、まだ考え得る全ての治療法を試したわけではない。しかし、「効果が得られる可能性が高い」治療法から順に行っていった為、今残っているのは、やってもそう大きな効果は望めないような治療法ばかり。

その残った治療法を試すか、それとも今の状態で退院するか。その判断を任された。

そう話された時の私の気持ちは、正直、やはり制限のある退屈な入院生活を終わらせて、退院したい。そういう思いしかなかったように思う。「残った治療法」とかどうとか、そんな事は何にも考えてなかった。

それともう一つ。やはりクラス替えのある4月から普通校に転入したかった。5月とか6月とか、中途半端な月に転入して、友人関係も固定してきた頃に自分がポンと入るより、皆が心機一転クラス替えを行った4月に、どうしても転入したかった。そういう気持ちで、私は主治医に「退院したいです」と伝えた。

そして平成4年3月。晴れて、私は転院前・後の病院合わせて合計10ヶ月にも及ぶ入院生活に終止符を打った。そして4月から、普通校に転入となるのであった。