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私の闘病記

退院。普通の中学で新しい生活へ

中学1年の3学期最後、私は1年間の入院生活に別れを告げ、S市の普通の学校に転校する事となった。

何故、入院前に暮らしていたK市ではないのか。

それは、父が「長期間の入院になるのに、親が遠くにいたら寂しいだろう。そばにいてやりたい」と言う思いで、S市への配置転換希望を職場に出していたのだ。それが受理され、父・母・妹共々K市からS市に引越ししていた。

いくら父が公務員で、全国に職場となる事務所があるとしても、このような私的な理由で簡単に配置転換願いが受理されるとは思えない。そこには、父の、私に対する家族愛と、その為に必死になる姿があっただろうと思う。

この場を借りて、父に、そして、母や、自分のせいで転校を余儀なくされても我慢してついてきてくれた妹にも、お礼を言いたいと思う。

ありがとう。

・・・話を戻します。

4月。中学2年の始業式。クラス替えがあり、周りが知らない人同士、というのは皆同じだったので、友達も作りやすい、と思っていた。

しかし。

クラス替えの為の、最初のホームルームでの自己紹介の時、私は、持病があって今まで入院しており、体力がまるでないということ、運動制限などがあって体育の授業は見学が多くなる事など、病気の話をした。・・・いや、病気の話しかしなかった。

・・・クラスの空気が変わった気がした。

今思えば、もっと違う話を少しでもすればよかったのかもしれない。趣味とか、お決まりではあるが「早くクラスに馴染んで、友達たくさん作りたい」とか。それが、私の自己紹介は、病気の話に終始してしまい、あわよくば「病気なので、特別扱いしてください」とも取れるような自己紹介をしてしまった。

そして、周りの人は中学2年、まだまだ子供。そういう「面倒な人」とは関わりたくない、と思われても仕方なかった。実際に、しばらくは休み時間の時でも、話しかけられることはなかった。

更に、もう一点問題があった。

いくら同じ「学校」とは言え、生徒が主に入院患者の「養護学校」と、「一般の学校」は、勉強の進むスピードも活動レベルも全然違う。そこになんとかついていこうとするから、精神的にも肉体的にも疲れる。

また、養護学校は病院に併設されていて、廊下で繋がっているので、通学も徒歩1分。今回は、家から1.5km、徒歩20分。あまりに今までとは違う生活に戸惑ってもいたし、正直あんなに待ち望んでいた退院生活だったのに、「病院に帰りたい」とさえ思っていた。

昼休みの時間には、クラスメートからは話しかけてこない。多分、『病気』のイメージが強すぎて、何を話していいのかわからなかったのだろう。また、自分からも、昼までの授業でグッタリだった為、机に突っ伏して寝ていた。

辛い。あまりにも辛い。入院してた方がずっと楽だった。

あれだけ待ちわびていた退院だったのに、普通学校に通い始めてわずか1週間で、そんな事を考えていた。

・・・そんな思いを吹き飛ばしてくれた出来事があった。

いつものように授業で疲れ、いつものように昼休みには突っ伏して寝て。学校の帰り道、いつものようにヘロヘロになりながら頑張って家を目指す。すると、後ろから、「SHUくん~」と声をかけられた。

クラスメートのKくんだった。「家、こっちの方なの」「うん、○丁目の辺り」「ホントに?うちと違いじゃん!今度から一緒に学校行かない?」と誘ってくれた。友達ができなくて寂しかった私は、もちろん二つ返事でOKした。

Kは、他のクラスメートが聞きづらいと思われることも色々聞いてきた。「何の病気なの?」「体調、どういう風に悪いの?」「○○はできるの?」と。自分に興味を持ってくれて、逆にすごく嬉しかった。

次の日から、Kは自分の家に来てくれ、一緒に通学し、帰りも一緒に帰った。また、Kと元々友達だった、S、Hとも仲良くなった。

・・・しかし。私は「自分は病気持ち」と言う事に、とてもコンプレックスを持っていた。

「どうせ、俺がかわいそうだから、しょうがなく仲間に入れてやるか、って感じなんだろ」って思っていた。いくら仲良くなっても、このコンプレックスの根は深く、なかなか払拭できなかった。でも、まぁその時々が楽しければいいかな、と、あまり深く考えないようにしていた。

・・・蛇足だが。その友人K、H、Sとは、20年近く経った今でも交流がある。「俺がかわいそうだから」って理由だけで仲良くしていたのなら、こんなに長い間友情は続かないだろう。

お互い社会人になり、結婚し、子供も生まれ、そんな中で時間を作って会い、マージャンしたり、昔話を肴に酒を飲んだり。今になって解る、「真の友情」。彼等には、なかなか気恥ずかしくて言えないのだが、本当に感謝している。この場を借りてお礼を言います。

ありがとう。

K、H、Sとは、私がパソコンのマージャンソフトを持っていた事がきっかけで、3人をマージャンの道に引きずりこみ、私も含めた4人がマージャン打ち仲間となった。それは今でも変わらず、会うとマージャンをしている。

友人もでき、少しずつ体力がついてきて、通学の往復もそんなに苦痛ではなくなっていた。時は流れ9月。合唱コンクールの時期になった。

私は多少歌には自信があり、クラスの中でも、自分が大きな声を出して、クラスを引っ張っていく、というような存在になっていた。練習・練習の日々で大変だったが、心地よい充実感も同時に味わっていた。・・・そして当日。

私は、本番の舞台に上がることはなかった。

血圧が急に高くなり、血尿も出て、主治医に相談したところ、しばらく学校を休んだ方がいいだろう、と言うことだった。何故・・・何故こんな日にこんな目に・・・あんなに練習したのに・・・自分で自分が情けなくなって、泣きそうになった。

どうしてこんな病気になっちゃったんだろう・・・こんな病気にならなければ、楽しい思い出ができたろうに。こんな病気を持った自分なんて嫌いだ・・・そんな風に思ってしまっていた。

合唱コンクールに出られなかった事だけじゃない。今まで、他の人はしなくていい、自分だけがしなくちゃならない「苦労」を今まで背負い込んできて、身体も心も限界に来ていた。そこへ、この「起爆剤」。

その日、私は布団をかぶって、枕を押し付けて泣いた。

・・・しかし。コンクールが終わった後、上で書いた、友達のKが心配して来てくれた。「SHUがいなかったけど、なんとか銅賞とれたよ!!体調悪いのか・・・あんまり落ち込まないで。回復してまた一緒に登校できるの待ってるから。回復したらまたマージャンしよう!!」と言ってくれた。

・・・忘れていた。こんなにいい友達ができたのは、自分が病気をして、転校してこのクラスに入ったからなんだ。今まで「何で病気になんてなったんだ」「病気の自分なんか嫌いだ」「病気のせいで人に迷惑ばっかりかけている」って思っていた。でも、「迷惑」って思っていたら、Kはうちには来なかっただろう。

ホントに自分のことを「友達」と思ってくれていて、心配だから来てくれたんだろう。この時、初めて思った。「病気にならなかったら、自分はどんな人生だったろう」と。友人には恵まれていただろうか。勉学はどうだったろうか。答えは返ってはこない。その人生を、自分は歩んでないから。

でも、これだけは言える。「病気になった人生も、そんなに悪くはないもんだ」と。